南蛮船渡来の地

長崎県指定史跡「南蛮船来航の地」
昭和16年1月17日指定
横瀬浦は永禄五年(1562)に南蛮貿易港として開港した。永禄四年(1561)、平戸でポルトガル人十数名の死者を出した宮の前事件が発生しており、キリスト教宜教師たちは平戸に代わる良港を探していた。イエズス会の宣教師ルイス・デ・アルメイダは西彼杵半島北端の横瀬浦の測量を行い、開港を領主大村純忠と交渉した。その結果、開港の条件として、ポルトガル船とともに入港する商人たちは関税を十年間免除され、神父たちの了解
なく異教徒が住むことは許されず、港の周囲ニレグア(ーレグアは約五キロメートル)の半分を教会が領有するものと定められた。
開港後、横瀬浦には教会が建てられ、キリスト教徒の集落もつくられた。
そして、仰と貿易をもとめて全国各地からキリスト教徒や商人たちが集まり、港は繁栄したと伝わる。また、クリスマスや復活祭などキリスト教の祝祭が盛大に催されたことが宣教師たちの書簡にうかがえる。大村純忠が洗礼を受け、日本で最初のキリシタン大名となったのも横瀬浦においてである。『日本史』の著者として知られるルイス・フロイス神父が日本での第一歩を刻んだ地も横瀬浦であった。
しかしながら、純忠の親キリスト教政策への反感と大村家の継嗣問題とが絡み、純忠の異母弟である後藤貴明を中心とした反純忠派勢力が永禄六年(1563)に純忠を襲撃し、横瀬浦は焼失した。
その後、南蛮貿易港は、福田を経て、長崎へと移った。開港した長崎では六区画の町割りがなされ、そのひとつは「横瀬浦町」と名づけられた。
西海市教育委員会

所在地 長崎県西海市西海町横瀬郷