実録 地域とつながるよそ者たち
私たちの活動を紹介していただきました。
月刊「地方財務」2026年7月号
編著者名 株式会社ぎょうせい
第8回 動かなくなった地域社会によそ者が風穴をあける
寄稿者 檜槇 貢(元弘前大学大学院地域社会研究科教授)
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早岐茶市(はいきちゃいち)
「早岐茶市」は長崎県佐世保市の早岐地区で安土桃山時代より毎年5月上旬から行われる「市」です。
その昔、交通の要衝であったこの地域で物々交換を行ったことがきっかけで開催されるようになりました。
この早岐茶市は、いにしえの時代から伝統と歴史を引き継ぎ今なお賑やかに行われています。
2026年早岐茶市
撮影日 2026年5月31日・日曜日
肥前陶磁器の誕生秘話
平戸洸祥団右ヱ門窯 第十七代中里一郎氏に聞く三川内焼
長崎県佐世保市三川内町
撮影日 2026年5月1日
なぜ原料がない三川内で焼物が焼かれたのでしょうか?
職人は朝鮮から連れて来られた陶工がルーツだそうです。原料は、早岐茶市で売られていた天草産の砥石が磁器の原料だと見出されて、三川内で磁器が焼かれるようになったそうです。
有田焼は明治期に明治新政府が盛んに欧米に向けて販売戦略を展開したために知名度が上がりました。その後有田商人は全国へ見本を持って行商へ赴き、有田焼の認知度がさらに高まりました。
波佐見焼は波佐見町には窯業技術センターがあるので、官民一体となって波佐見焼ブランドの確立に動いてきました。少し前までは有田焼のシールを貼られて全国に出荷されていた波佐見焼ですが、今では波佐見焼として独立した産地、ブランドが確立されつつあり、有田焼ではなく波佐見焼を買いに波佐見陶器市に来る焼き物ファンも増えました。
三川内焼は、かつては伝習館がありましたが、県の窯業技術センターは波佐見に作られてしまいました。波佐見焼の場合、長崎県と波佐見町が協力して産業育成に当たってきましたが、三川内焼の場合には、長崎県と三川内町の間に佐世保市が介在してしまうので、官民一体で産業育成をするのに波佐見町のようには臨機応変に動けなかった経緯があるそうです。また人材育成機関は、有田町の窯業大学に依存しており、三川内焼が遅れをとってしまった原因はそのような背景があるそうです。
南蛮船渡来の地
長崎県指定史跡「南蛮船来航の地」
昭和16年1月17日指定
横瀬浦は永禄五年(1562)に南蛮貿易港として開港した。永禄四年(1561)、平戸でポルトガル人十数名の死者を出した宮の前事件が発生しており、キリスト教宜教師たちは平戸に代わる良港を探していた。イエズス会の宣教師ルイス・デ・アルメイダは西彼杵半島北端の横瀬浦の測量を行い、開港を領主大村純忠と交渉した。その結果、開港の条件として、ポルトガル船とともに入港する商人たちは関税を十年間免除され、神父たちの了解
なく異教徒が住むことは許されず、港の周囲ニレグア(ーレグアは約五キロメートル)の半分を教会が領有するものと定められた。
開港後、横瀬浦には教会が建てられ、キリスト教徒の集落もつくられた。
そして、仰と貿易をもとめて全国各地からキリスト教徒や商人たちが集まり、港は繁栄したと伝わる。また、クリスマスや復活祭などキリスト教の祝祭が盛大に催されたことが宣教師たちの書簡にうかがえる。大村純忠が洗礼を受け、日本で最初のキリシタン大名となったのも横瀬浦においてである。『日本史』の著者として知られるルイス・フロイス神父が日本での第一歩を刻んだ地も横瀬浦であった。
しかしながら、純忠の親キリスト教政策への反感と大村家の継嗣問題とが絡み、純忠の異母弟である後藤貴明を中心とした反純忠派勢力が永禄六年(1563)に純忠を襲撃し、横瀬浦は焼失した。
その後、南蛮貿易港は、福田を経て、長崎へと移った。開港した長崎では六区画の町割りがなされ、そのひとつは「横瀬浦町」と名づけられた。
西海市教育委員会
所在地 長崎県西海市西海町横瀬郷







