させぼについて

はじめに、、、

烏帽子岳中腹から佐世保港を望む写真です。
天然の良港(深い入江)を持つ佐世保が、西日本を守る大日本帝国海軍の拠点として選ばれ、明治22年(1889年)に佐世保鎮守府が誘致されました。
させぼ山手研究会が所在する佐世保市白南風町は、佐世保港を一望出来ることから帝国海軍の高官の住居が数多く建ちました。
戦後は、海軍が解体され高官だった人たちは故郷に帰り、佐世保に在住していた商人たちの住まいとなっていきました。
そして今は、高齢化が進み空家が多くなってきました。以前の賑わいを復活させたいと山手研究会は取り組んでいます。
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佐世保市の歴史は、泉福寺洞窟(瀬戸越)から明らかになります。約1万5千年前の石器が出土し、1万2千年前の層からは、世界最古の土器「豆粒文土器」が出土しました。

江戸時代の佐世保は、基本的に肥前国(長崎県・佐賀県)の平戸藩(ひらどはん)の領地でした。松浦氏が統治し、現在の佐世保市から北松浦半島に広がる地域です。なお、佐世保の南部の一部は島原藩領(高木氏など)であった地域も存在します。

明治初期までは、人口約4000人の半農半漁の一寒村でした。明治22年に旧海軍の鎮守府が設置されると急速に発展し、明治35年に村から一挙に市になりました。

戦後は平和産業港湾都市として発展し、「造船」・「炭鉱」を経て、現在は製造業とともに、県北地域の商業サービス業の中心となっています。
また、昭和30年に指定を受けた西海国立公園や平成4年オープンのハウステンボスなどのアメニティリゾートが整備され、毎年多くの観光客を魅了しています。

明治時代の佐世保は、それまでの人口約4,000人の静かな「西海の一寒村」から、東洋一の軍港都市へと劇的な変貌を遂げた時代でした。1886年(明治19年)の佐世保鎮守府設置(1889年開庁)を機に、国の近代化プロジェクトの一環として急速にインフラ整備が進められました。

1. 「一寒村」から「軍港」へ
鎮守府の誘致: 天然の良港(深い入江)を持つ佐世保が、西日本を守る海軍の拠点として選ばれました。
人口の急増: 軍関係者や作業員、その家族が流入し、村は急速に都市化しました。
市制施行: 明治22年(1889年)に鎮守府が開庁し、明治35年(1902年)には市制が施行されました。

2. インフラ・街の整備
市街地の造成: 佐世保川沿いの湿地や干拓地が埋め立てられ、現在のアーケード通り周辺に碁盤の目状の市街地が作られました。
鉄道・水道: 海軍施設への物資輸送のための鉄道網や、山ノ田水源地などの水道インフラが整備されました。
海軍工廠(こうしょう): 艦艇の建造や修理を行う施設が作られ、最先端技術が投入されました。

3. 当時の様子
佐世保川と橋: 当時は佐世保川に橋が少なく、飛び石で渡る場所もありましたが、後に海軍橋などが建設されました。
異国情緒と軍港文化: 軍関係者や外国人(軍事顧問など)が滞在し、独特な文化が形成されました。

この時代に整備された碁盤の目の街並みや軍港としての機能は、その後の佐世保の発展の基礎となりました。

西海国立公園 九十九島(昭和30年(1955年)指定)

ハウステンボス(平成4年(1992年)オープン)