第1章 肥前平戸焼を考察するならば

第1章 肥前平戸焼を考察するならば

 東シナ海、南シナ海、海のシルクロードを作り上げていくネットワーク集団(海人)たちを考えることが大変大事だと私は考えています。どの時代から始めるか、私は蒙古襲来から始めることにしたい。
 蒙古襲来によって、海人たちは大陸へのルートやネットワーク構築の可能性を知りました。そのような時代のなかで「倭寇が誕生します」、折しも西洋では、大航海時代が始まります。
 西海の覇者「松浦党」が誕生します。松浦党は倭寇のネットワーク集団で、大きくなるにつれて、上松浦党と下松浦党に分かれます。日本は戦国時代に入り、上松浦党は、波多一族が藩となるはずでしたが、太閤豊臣秀吉により改易となります。下松浦党は、平戸藩として江戸時代まで生き抜きました。
 松浦党は、西海の果てで貧しい人々が寄り添い、細々と生き抜いてきた「海人」たちです。転機が訪れたのは、大陸との民間交流、貿易、密貿易、海賊行為等の「海人」が活躍できる、大航海時代が始まったからです。
 そういった時代の流れのなかで「平戸焼、肥前の磁器、の誕生」があります。海人たちの交流のなかでも、特に「中国大陸との交流」が、新時代を作り上げたと思っています。
 国際貿易都市「堺」が日本の窓口として活躍するのは、日明貿易が始まり遣明船が、堺港に着岸した1469年から始まります。多くの中国人やポルトガル人、イエズス会宣教師らが、堺を目指しました。なかでも中国人が圧倒的に多く、彼らは100年後には堺の住人となって、中国(海人)との交易をより強く発展させました。1568年織田信長が、堺の自治権を取り上げたため、堺は海外貿易港としての機能が衰退していくことになります。
 後期倭寇の覇王王直が誕生しますが、いきなり誕生するわけではありません。明朝の「海禁」により海外貿易が出来なくなった商人たちが、密貿易に活路を見出し、海賊行為も厭わない覚悟で明朝に刃向かいました。
 最初のうちは、小さな集団がたくさん出来て、下剋上を繰り返し、頂点に上りつめたのが「王直」です。王直と平戸藩が出会うのは、1540年に平戸藩が懇願し王直がそれに応じる形で、土産には火縄銃を持参しました。1542年に王直は大邸宅を平戸に建てました。1543年には種子島で難破し、そこで火縄銃を披露しましたが、それは堺港との貿易が目的でした。1550年、ポルトガル船が平戸に入港すると、王直はますます力を増していき、東シナ海、南シナ海の覇者となりますが、1559年明の官憲の謀略により処刑されました。
 平戸藩は、王直の力を借りて下松浦党の覇者となり、「平戸松浦」は後の「平戸藩」となります。