第2章 平戸三川内焼を研究する方向性について

第2章 平戸三川内焼を研究する方向性について

 肥前地区、西海地区、松浦地区、五島列島、壱岐、対馬、東シナ海、南シナ海、日本海等の海の文化圏としての捉え方から始めるべきではないかと思います。
 太古から海の交流はあったが、私は平戸藩の成立する要因である元寇の襲来、倭寇の誕生から始めたいと思います。ヨーロッパでは「大航海時代」が始まり、海のシルクロードが出来上がり、海の覇権争いが始まり、日本は明治維新に突入します。
 後期倭寇には「海の王」としての主張が感じられます。平戸藩は、そのような時代を明治維新まで生き抜いた藩です。海の民を束ね、後期倭寇と共に海に活路を見い出し、西の都と呼ばれる繁栄を勝ち取った藩です。
 景徳鎮が磁器生産地の王として約800年君臨します。この期間、中国・ベトナム以外では磁器を作ることが出来ませんでした。それは何故でしょうか?そのような磁器を約800年後「平戸中野窯」が誕生させました。なぜ平戸藩が磁器の生産を研究開発したのか考えて欲しいと思います。
 この時代、国内では関ヶ原合戦があり徳川幕府が武士文化を誕生、完成させていきます。平戸藩と徳川幕府との関係はどのようなものであったか考える必要があります。
 「平戸三川内焼」生産の目的は、その時々の情勢によって変わるものと思われますが、そういう見方をしてみる必要があると思います。今では磁器の誕生には、中国人の知識と技術が必要だったと主張する研究者はいますが、研究対象として扱うまでに至りません。(この時代は平戸藩しか中国とのパイプはありませんでした。)
 磁器を作る側から考察すると、秀吉の朝鮮出兵で連れて来られた陶工たちが本当に磁器の器を肥前で作る必要があったのか疑問が残ります。当時は唐津焼で充分であったはずです。
 肥前地区で陶工として連れて来られた者のなかで、名前がはっきりしている人物は、平戸に上陸した巨関だけです。今村文書は学問的に取り上げられていませんが、当時の状況については嘘を書く必要があったり、または真実を語ることが出来なかったものと考えて、想像力を働かせて紐解く必要があると思われます。
 平戸藩から中野窯製作資金を調達することが出来たのは何故だったのか、中野窯では何を焼いていたのか、陶工たちはどこに住んでいたのか、材料はどこから調達していたのか、謎が多いまま研究対象とされぬままでいる平戸中野窯について、磁器誕生を研究する研究者はもっと着目すべきだと思います。
 三川内山移動についても、なぜ移動することになったのかを研究する研究者が誰もいません。椎野峰より新しいメンバーも参加していることは注目すべき点であります。この移動は、1625〜1650年まで約25年の時間をかけて慎重に策をめぐらし用意周到に進められました。李朝磁器は肥前より朝鮮に帰った陶工たちが作った可能性も否定できません。肥前地区の磁器生産地である三川内山、有田、波佐見は10キロ圏内にあります。三川内山には新窯と呼ばれている窯がありますが、これは日本で初の本格的磁器窯(徳化窯)であると思われます。
 中野窯では30年間のうちに人口は150人から200人に増加していたと思われます。その人々は全員が三川内山へ移動したのでしょうか?その全員が今村姓だったのでしょうか?平戸中野窯は発掘調査されていますが、1600年説と1630年説があり、結論にはまだ至っておりません。李参平が磁器を初めて焼成したという明治20年に有田が作り上げた有田説に誰もが呪縛のように洗脳されてしまって、真実を探究することが出来なくなっているように思われます。
 巨関こそが肥前の陶祖であるはずです。巨関は普通の陶工ではありませんでした。韓国には彼が関与した窯場があり、巨関はその窯場と平戸中野を行き来していた形跡があります。巨関は平戸に来て仲間たちの生活基盤を整えた後、椎野峰に入りました。有田では高原五郎七と名乗っていました。彼は行く先々で名前を変えていました。巨関が何を考えてどのような行動をしていたのかを解き明かすことは、肥前地区の磁器発祥のメカニズムを解明する上で重要な事項であると思います。
 鄭成功、中野窯、平戸藩、伊万里焼、鍋島藩には壮大な肥前磁器物語があります。これらには徳川幕府も関係していました。平戸藩は、密貿易を1640年頃まで続けていました。徳川幕府は海外貿易を平戸から長崎出島へ移しました。田川まつが鎖国を犯し中国で憤死し、また鄭成功も死にました。その結果ジャンク船の力は弱まりましたが、徳川幕府は島津藩の海外貿易を取り上げることはできませんでした。
 イギリスが南シナ海から東シナ海へと入り清国と対峙しました。アヘン戦争を経て、徳川幕府の鎖国政策も崩壊していきました。明治時代に入ると、明治政府、佐賀県、有田による万国博覧会出品用に仕立て上げた、朝鮮人陶工李参平による磁器発祥説が宣伝されるようになり、肥前磁器の真実を探究する妨げになるようになります。
 平戸三川内焼は、そのような環境のなかでも生き続けてきました。平戸中野窯は1600年には磁器の生産に成功しています。中野窯は研究目的の窯でしたが、中野窯で焼いた磁器は中国産として国内で売り捌かれました。材料はほとんどが密貿易で調達されており、中国産、韓国産、国内産の原料によって生産されていました。1620年頃には、品質面、量産面、資金調達面で目処が立ちましたが、徳川幕府との軋轢があって、平戸三川内焼はその存亡そのものを考え直す必要に迫られました。
 三川内山への移動、茶道鎮信流の誕生、長葉窯の誕生、肥前磁器同胞の村づくりなど、平戸藩は生き抜くためにあらゆることをして最善を尽くしました。その結果、その対価は大きなものでしたが、平戸藩は生き抜くことに成功しました。松浦党として徳川時代を唯一生き抜いた藩です。
 海の覇権争いを考えると、後期倭寇と西欧列強(ポルトガル・スペイン・オランダ・イギリス)、イエズス会が入り混じった混沌とした社会情勢があるなかで、国内では戦国時代を経て、武家政権(豊臣秀吉、徳川政権)へと目まぐるしく変化していく、そのような環境のなかで「平戸三川内焼」は誕生したのです。