第3章 大航海時代の中国海人と西海海人
この時代の中国と日本との関わりについて研究がされていません。特に海人たち、前期倭寇、後期倭寇といわれた海の覇者たちについての研究が全くされておりません。
ここでは平戸焼から始まる有田焼、波佐見焼の関わりについて考察したいと思います。中国との交流は、卑弥呼の時代以前からありました。前期倭寇が誕生するのは、元寇があり肥前地区が壊滅的な打撃を受けた頃になります。時の中央政権(鎌倉幕府)は何もしませんでした。そのような厳しい時代環境のなかで、前期倭寇の誕生は必然的なものでした。はじめは小さな集団から始まり、それが大きくなって松浦党が誕生し、やがて上松浦党(波多氏)と下松浦党(平戸松浦)に分かれました。戦国時代に入ると、海人たちは陸の戦いを強いられるようんなりました。
波多氏と平戸藩は貿易が財政上重要であると考え、多少の小競り合いはありましたが、波多氏は朝鮮との貿易をして、平戸松浦は中国との貿易をすることで住み分けをしていました。
後期倭寇は明の海禁政策により自然発生的に生まれて、小さな集団がやがて大きくなり海の覇者として君臨するようになりました。(海人ネットワークは、中国人・朝鮮人・日本人が入り乱れる形で成立していました。)
平戸松浦は、後期倭寇の覇王である王直との密貿易を望んで、平戸城内に大きな屋敷を建て歓待しました。王直を得た平戸松浦は、ポルトガルとの貿易も可能となり、戦国大名として名乗りを上げることができました。しかし王直は明の謀略により命を落とすこととなり、平戸松浦との盟友関係は17年間で終わりました。王直の後を引き継いだのは、李旦でした。平戸藩は密貿易で得た中国磁器を国内向けに販売していました。上松浦党の波多氏は、岸岳五窯にて陶器を作りそれを朝鮮産として国内販売して莫大な利益を上げていました。平戸藩は李旦を使って領内の中野で磁器生産を開始しました。中国人陶工たちが生産した平戸焼は、中国産として国内販売されて利益を上げていました。しかしそのような時代は長くは続かず、豊臣秀吉、徳川家康の天下統一によって戦国時代は終わりを迎えました。平戸藩は激動の時代のなかを生き抜くためにあらゆる対応をしてきました。中野窯においては、中国人陶工たちを朝鮮人陶工と称して、秀吉の朝鮮出兵の際に連れ帰るという対応をしました。
関ヶ原合戦では、鎮信(法印)は陰陽の策を用いて難を逃れましたが、その2年後には息子(久信)は伏見で死にました。それでも幕府は、外様大名として平戸藩を警戒しました。密貿易、平戸中野窯、キリシタン禁止令、オランダ船平戸入港、さまざまな問題について全力で対応してきました。それでもまだ安心できずに、鎮信(法印)は日の岳城を焼くことで幕府への恭順を示しました。
1622年最後の覇王である鄭芝龍が平戸に入港しました。平戸隆信(宗陽)は、李旦を高く評価できずに不満だったので、鄭一族との協議は望むところでした。海人たちのネットワーク世界において、鄭芝龍という若きリーダーに未来を賭けたと言えます。上陸後の芝龍の活躍はめざましく、わずか2年で李旦に代わる頭目の座に就きました。平戸隆信(宗陽)は、あっぱれと大いに喜び、彼に「平戸老一官」の名を授けました。
鄭芝龍は、1627年に中国沿岸で大規模な略奪行為を行ないました。このため、明朝はオランダに海賊を排除する協力を要請しました。オランダはこれに協力しましたが、鄭芝龍軍に敗れ去りました。芝龍の軍事力と経済力が強大なことを知った明は、方針を転換し、1628年に彼を福建省の沿岸防衛提督に任じました。その後平戸藩はすぐに幕府に鄭芝龍を謁見させました。
タイオワン事件(1624〜31年)が起き、日蘭関係は悪化していきました。事件は解決の方向へ進んでいましたが、将軍秀忠が死亡すると長期化するおそれがありました。このためオランダ側は、早期解決を願い、新将軍家光や幕府高官に働きかけて貿易の再開にこぎつけることが出来ました。
1630年に鄭成功は父親の勧めで明の福建省に赴きました。鄭芝龍は1636年に福建省の都督に任命されました。1645年には国王より国内第二位の称号を与えられ、広東から南京に至る一帯を与えられました。
タイオワン事件から、台湾の周りには海賊が次々と出没するようになり、日蘭関係は悪化し、鄭芝龍との関係も不安定なものとなりました。芝龍は、海賊たちを次々に取り締まり、オランダをも恭順させました。
芝龍は、中国から陶磁器を入手できなくなることを予想していました。芝龍にとって陶磁器は、清朝と戦い抜くためには大事な貿易品であると考えていました。(1630年ごろ)。そこで芝龍は平戸藩側に打開策を求める動きをしました。一方の隆信(宗陽)も、中野窯の研究により量産計画の可能性を探っていました。両者はたちまち問題解決のために動き始めることになりました。芝龍が求めていた生産量は膨大であったため、平戸一国では対応できず、隣藩の有田地区、波佐見地区、そして三川内山地区(平戸藩は三川内山への移動を計画していました)が、必要であると考えました。
窯職人、積出港、資金など様々な問題が生じましたが、問題解決に向けて動きました。一番大事な交渉は、幕府への陳情と計画立案の説明、隣藩との交渉へのお願いでした。幕府側に全ての解決について委ねると、幕府側も平戸藩の恭順を認めて、鄭芝龍の要望に応えることとなりました。その結果、中国人陶工たちは朝鮮人陶工として各地に送り込まれ、資金面・生産面など全ての問題については鄭芝龍が責任を持ち、肥前における生産責任は平戸藩が持つことになりました。何か問題が起きた場合には、幕府と協議し沙汰を待つ形になりました。
1640年頃には、各地で陶磁器の生産が始まりました。この恩恵を一番受けたのは鄭成功でした。近年の有田地区での発掘調査で、磁器窯の作り方が中国の徳化用窯と同じであったことが分かりました。
軍資金としての磁器物は、結果として広く世界に肥前磁器を運ぶこととなりました。オランダが制海権を持つ南シナ海を超えれば、イギリス、スペイン、イスラム等の人々によって直接取引されていました。海の考古学の進展により、鄭一族による肥前磁器物の独占販売の実態が明らかになりつつあります。
鄭一族が日本にもたらした最大の功績は、「黄檗文化、隠元禅師」を中心とした「明朝文化の継承」であると私は思います。特に平戸藩・平戸焼は、国のあり方、武士の進むべき道、平戸焼が継承しなければならない文化に影響を及ぼすこととなりました。
