第4章 鄭成功と平戸焼

第4章 鄭成功と平戸焼

【鄭芝龍】
 1624年、李旦の後を引き継ぎ倭寇の頭目となったのが、鄭成功の父である鄭芝龍でした。鄭芝龍は、1581年に中国福建省泉州に生まれ、父親は周辺を支配していた鄭一族の長でした。倭寇の頭目となれたのは、有力な鄭一族の地盤があったからでした。その後、鄭芝龍はオランダ船に乗って平戸内浦に上陸しました。その目的は、王直と同様に密貿易を支配し頭目になるためでした。鄭芝龍は平戸藩主の「鎮信」に取り入るための努力を続け、ついに「平戸一官」の名を戴くことができました。その努力の一つとして挙げられるのが、田川マツとの婚約です。「鎮信」とマツの父「田川七左衛門」は、朝鮮での戦友であり深い関係にありました。
 芝龍は平戸藩主「鎮信」から特別待遇を受けるようになり、王直でさえも手に入らなかった「平戸老一官」の称号を得ることとなり、平戸藩にとっても特別な人物となりました。やがて芝龍は、川内浦の医者である田川氏の娘「マツ」を娶り、二人の子を授かりました。(福松=鄭成功、弟次郎=二代目田川七左衛門)
 その後、芝龍は中国に戻り、その手腕が認められ明朝の大将軍に任命されました。だが清朝の勢力が拡大し、一族の将来を危惧した芝龍は清朝に降伏しましたが、謀反の罪に問われて幽閉の身となり、1661年に北京で処刑されました。
 鄭成功の母である田川マツは医者である田川七左衛門の娘として平戸で生まれ育ち、貿易を目的に上陸した鄭芝龍と出会い、1624年に福松(鄭成功)を産みました。翌年、頭目李旦が死に、鄭芝龍が頭目の座に就きました。マツは頭目の妻として、一党を束ねることとなりました。
 1640年頃には貿易の利権は徳川幕府に奪われ、長崎に貿易の拠点が移りました。幕府は出島を造り、オランダと華僑のみに貿易を許しました。田川マツは華僑の担当頭として、長崎の港でも陣頭指揮をとっていました。
 やがて「マツ」は鎖国のなか、帰国できないことを知りながらも、中国泉州に渡りますが、暫くして清の攻撃による泉州城陥落に際して鄭芝龍は降伏しましたが、城内にいた「マツ」は降伏することなく応戦して泉州城内で自害して、日本女性の心意気を世に示しました。
 鄭成功には弟がおり、田川姓を残すために平戸にとどまり、田川次郎左衛門(平戸藩士)として田川姓を受け継いでいきました。父の死後、彼は父の名を継ぎ、二代目田川七左衛門と名乗りました。

【鄭成功】
 鄭芝龍と平戸武士の娘マツとの間に生まれた福松(鄭成功)は、平戸で生まれ育ち、7歳の頃に父親の招きで中国へ赴き、学問に励みました。21歳のとき、明の隆武帝より明王朝の国姓「朱成功」を賜りましたが、恐れ多いこととして名だけを「成功」と改めました。以後、人々は彼のことを「国姓爺」と呼ぶようになりました。その後の鄭成功の活躍は述べるまでもないですが、私が思う鄭成功の重要な功績は、①清朝を滅ぼし、明を復活させようとしたこと、②台湾をオランダ人から解放したこと、③肥前磁器を生産販売したことだと考えます。
 父の芝龍が清朝に降伏したのに、母のマツは降伏を潔しとせずに憤死しました。支援を求めた徳川幕府も動こうとせず、清軍の攻撃による大敗もありましたが、最終的にはオランダ人が支配する安平のゼーランディア城を陥落させ、オランダ人を台湾から追放しました。鄭成功の活躍は、近松門左衛門の戯曲「国姓爺合戦」にその記述があり、日本でも広く知られ、台湾においては「台湾解放の父」として尊敬を受けています。平戸が輩出した国際的風雲児で英雄といえます。しかし、鄭成功は、オランダ人を台湾から追放した翌年に病に倒れ、39歳で急死しました。
 平戸焼は1600年に誕生しました。最初の30年間は景徳鎮産として国内で販売していましたが、鄭芝龍と平戸藩の思惑が一致して、量産化することを決定しました。平戸藩は巨関に命じて、量産場所を肥前地区と定めました。鄭芝龍は磁器職人を大量に集めて平戸入城を果たし、肥前地区の窯場の指導にあたらせました。1640〜1690年頃まで量産し、鄭成功の軍資金の調達源としての役割を果たしました。もし、鄭成功が海の覇王にならなかったら、日本の磁器生産はもっと遅れることとなり、花を咲かせることはできなかったと思います。

【まとめ】
 かつては日本も戦国時代の乱世でしたが、江戸時代になると規律と共に武士道を重んじるようになってきました。鄭成功が生まれたのは、ちょうどそのような時代でした。多くを語らず自己主張もしない凛とした姿の母(田川マツ)の日本的なアイデンティティーを鄭成功も受け継いでいました。
 父の鄭芝龍が清に降伏したときも、それを潔しとしなかった母の意思にも同調して、同族の反対勢力とも戦って義を貫きました。これは日本の主君に忠実な武士道の精神であり、一度忠誠を誓った明朝に対して決して裏切ることはできませんでした。
 南京攻めでは敗れはしましたが、略奪はせず弱者には手を出しませんでした。その進軍の姿は、今でも語り継がれています。台湾を攻めるときにも現地人を大切に扱い、結果的にはオランダの植民地支配から民衆を解放することとなりました。彼は今でも国の英雄として祀られています。
 平戸との関係は、後期倭寇の頭目「王直」が東シナ海を牛耳っていた時代から、「李旦」「鄭芝龍」そして「鄭成功」へと受け継がれ、陶磁器の貿易という密接な関係のなかで、大海原を舞台に諸国と交流する鄭一族の精神と日本的な精神を併せ持つ「鄭成功」は、武士道や侘び寂びという日本的な思考を哲学として持ち行動していたのではないかと私は思います。日本における鄭成功についての研究がさらに進展することを願うばかりです。