第6章 平戸藩窯の遍歴と年代順

第6章 平戸藩窯の遍歴と年代順

平戸中野窯(1585〜1640)
・中国景徳鎮磁器を手本に磁器の生産を研究した窯
・中国陶工巨関を中心に研究生産された窯(生産された磁器は中国産として販売した)
・中国人職人の力を借りて窯作りした(窯は中国の技術で作られていた)
・発掘調査はされているが、1600年説と1630年説があり、何を焼いていたのか分からず、よく解明されていない窯
・窯は整理されて壊されていた(廃窯は自然放棄が通常の時代)
・物原には、窯道具とサヤ鉢が出てきたが、製品は出てこなかった。
・徳川幕府との軋轢があり秘密保持の必要があった。
・1620年代になると磁器生産の目処もついて、窯人口も増加していく。問題解決へ取り組む必要が出てきた。
・「通説」唐津焼と同じような陶器とヒビ焼が生産されていたとされる。

三川内山移動と長葉窯(1625〜1645年)
・移動する条件と目的が整った。肥前磁器同胞の村作り、景徳鎮を凌駕する製品作りと徳川幕府との軋轢がなくなりつつあり、磁器生産の障害がなくなったが、平戸藩は改易の恐れを考慮して慎重に行動した。
・まず三川内山入口付近に長葉窯をつくり、幕府側から問われても肥前地区によくある窯で磁器窯ではないと主張した。
・中里エイ(巨関の縁者)の息子である茂右衛門が入り、椎野峰より仲間を集め村作りに邁進した。
・1630年平戸藩は、長葉窯を藩窯に指定した。土窯を指定したのは何故なのか不明である。磁器物を試し焼きしたのかも知れない。
・平戸中野窯から移動が始まる。1630〜1650年をかけて移動した。新窯と呼ばれる、肥前地区最初の磁器窯を作り上げて、みんなの町づくりをした。
・発掘調査はされたが、中野窯と同じく未解明のことが多い窯

新窯(誰にも研究されない肥前の聖なる磁器窯)
・1630年頃、平戸中野窯より移動してきた。今村氏を中心に本格的磁器窯作りをした。(中野からの移動者は全員今村氏)
・この窯は販売するための器は作られてない。景徳鎮より学び景徳鎮を凌駕する芸術品を作る使命をもった窯だった。

東窯、西窯(三川内山奥、1650年〜)
・村がまとまって助け合い100以上の連房窯で磁器生産を行なった。これだけの生産は藩窯としては多いが未解明である。