第14章 鄭芝龍について
1500年代、東シナ海は明の「海禁」政策に反した行動に出た中国人商人たちが海外との密貿易を行い、「後期倭寇」となりました。
後期倭寇の初代頭目が「王直」であり、東シナ海と南シナ海を支配下に置いていました。王直亡き後、王直が作った平戸との密貿易システムを引き継いだのは「李旦」でした。李旦の時代になるとそれまで王直が支配していた南シナ海では、ポルトガルなどの西洋列強が支配権を握るようになっていました。日本の平戸や大村にもキリスト教の布教を掲げてさまざまな野心を持って上陸していました。
1600年頃になると、西欧の覇者がポルトガル・スペインからイギリス・オランダへと変わりました。オランダは倭寇との関係も良好で、日本へもたびたびやって来ていました。
1622年、鄭成功の父「鄭芝龍」は中国福建省で強大な勢力を誇っていた鄭一族の長の息子として平戸に上陸しました。1624年には川内浦の武士、田川氏の娘「まつ」を娶り2人の子を授かりました。長男福松、後の「鄭成功」。次男は平戸藩士、田川次郎左衛門。
1625年、鄭芝龍は李旦の後に倭寇の頭目となりました。倭寇の頭目となれたのは、鄭一族の地盤があったからこそでした。
鄭芝龍の台頭によって平戸藩は李旦から鄭一族に貿易相手を乗り換えました。鄭芝龍への平戸藩主「隆信(宗陽)」からの待遇は特別で、「平戸老一官」の称号を賜わっています。それだけ平戸藩にとって特別な人物でした。
鄭芝龍は平戸藩主の「隆信(宗陽)」と陶工の頭目「巨関」と共に海外向けの陶磁器の量産を計画して実行しました。それがのちの肥前陶磁器の発展へと繋がっていきます。
その後、鄭芝龍は中国に戻り、その活発な手腕が認められて明の大将軍に任命されました。ところが清による勢力の拡大から、一族の将来を危惧した鄭芝龍は清に降伏するも、謀反の罪を問われて幽閉の身となり、1661年に北京で処刑されました。
鄭芝龍は、磁器物が中国より入出できなくなることに危機感を感じ、打開策として肥前地区にて磁器物生産が出来ないかを平戸藩と協議し、幕府への許しをいただき、肥前地区(三川内山、有田南川原、波佐見)にて磁器を生産した最初の人物です。
