第17章 平戸焼と巨関(きょせき)について

第17章 平戸焼と巨関(きょせき)について

 平戸焼の始まりは、一般的には日本では以下のように言われています。
「今からおよそ400年前、豊臣秀吉が起こした朝鮮の役が終結した際、各地の大名は朝鮮の陶工を連れ帰った。平戸藩主である松浦鎮信も陶工を連れ帰った。そのなかに慶尚道熊川出身の巨関(こせき)と呼ばれる人物がいた。1598年、陶工の一人・巨関は帰化して今村姓を名乗り、藩主の命により平戸島中野村の中野窯で最初の窯を開いた」
 この巨関という人物こそが、日本の肥前における磁器の生みの親であると私は考えています。
 日本における磁器生産の始まりは、一般的には以下のように言われています。
「朝鮮の役(1592〜1598)の際に佐賀藩主鍋島直茂によって連れて来られた朝鮮陶工の李参平なる人物が磁器の材料となる陶石を有田の泉山で1616年に発見し、そこから日本の磁器生産が始まった」
 しかし、この李参平という人物については歴史研究者の間では間違った伝承であるとの見解がなされています。私も明治時代になって作られた物語上の人物であり、実在はしていないと思います。
 やはり巨関が日本における最初の磁器生産の中心人物であり、その根拠はここでは述べませんが、私の著書「肥前磁器誕生の真説」のなかで述べています。
 その後、私の巨関に対する考え方も変わってきて、最近では巨関は中国人だったのではないかと考えるようになりました。磁器を生産するということは大変なことであったので、当時は中国人が主力でやらないと出来なかったことであろうと私は考えています。ただしこれについては確たる証拠がまだなく、私は中国側からの史料から今後分かることがないだろうかと思っています。
 ただし巨関については中国側の認識がほとんどありません。まず巨関を考えるには、王直から始めないと平戸藩自体も成り立たないのです。