第22章 網代陶石

第22章 網代陶石

 折に触れて網代陶石の陶石ブレンドについて触れていますが、平戸三川内焼を語るとき、網代陶石を語らなければいけないほど重要な陶石なのです。
 この陶石をブレンドすれば、呉須の染み込みができ、薄つくり、細工物、置き上げ、透かし彫り、貼り付け等々、芸術にまで技術を高めることができた陶石です。
 網代陶石は針尾島三ヶ岳網代にて発見された陶石ですが、道がなく船による海上輸送のみでした。この陶石の発見は1633年頃と言われていますが、私は平戸藩唯一の陶石ですので、1610年頃ではないかと推測しています。
 平戸中野窯ではいろいろな陶石をブレンドする研究がされていました。網代陶石もその痕跡がありました。その中で使えたのが、波佐見三股陶石とのブレンドです。
 平戸中野窯は三川内山へ移動するのですが、なぜ移動しなければならなかったのか、確かなことは分かっていません。もともと中野窯は研究目的の窯であり量産目的の窯ではありませんでした。量産できる条件が整ったので、窯移動の大問題に着手したのではないかと私は思います。その条件とは、以下のようなものであったと考えています。
・幕府側に秘密にする必要がなくなったこと
・量産計画が出来上がったこと
・資金の調達もできたこと
・人材の確保の問題も解決できたこと
 三川内山への窯移動は計画通りに、まずはダミー窯を長葉山に作り幕府側にはただの土物窯と思わせて、人材を集めて用意周到に時間をかけて準備しました。1625年から1650年頃までの30年間という年月をかけて移動しました。
 網代陶石と波佐見三股陶石のブレンドがなければ、窯の移動も遅くなり、場所も違っていたと思います。このブレンド陶石ですが、肌地が黒いために天草陶石が見つかると、網代陶石と天草陶石のブレンドにとって代わられます。この新しいブレンド陶石は名コンビでしたが、明治20年明治政府と有田の圧力によって幻になった経緯があります。(1645〜1887年)
 網代陶石がなければ平戸三川内焼は生き続けることができたのか、ましてや将軍家や天皇家に献上することができただろうか、疑問に思います。
 天草陶石は、1605年には中野窯で研究されていますが、キリシタン問題があって天草が天領となり、事態が落ち着くまで使うことができませんでした。
 波佐見三股陶石は1633年に発見されましたが、この陶石は肌地が黒地という問題がありますが、ブレンドするには相性の良い陶石でした。
 有田泉陶石は、1615年頃に発見されましたが、これはブレンドするには不向きな陶石でしたが、鍋島藩による陶石管理が厳しいという問題がありました。
 上記のような内容を考え合わせると、平戸中野窯の使命が分かります。そして三川内山への窯移動となります。
・平戸中野窯は研究目的の窯
・肥前地区で初めての本格的な磁器窯
・中国景徳鎮を手本に研究
・幕府に秘密に研究し販売した
・他藩へ危険を顧みず陶石の探索活動をした
・平戸藩の密貿易が中野窯を支えた
・中国人を中心に研究がなされた
・量産できる目処をつけ量産計画を立てた
・平戸中野窯は中国のどこの産地の様式の窯で作られたのかを研究する必要があります。近年の研究で、有田地区の窯は中国徳化窯の様式の技術で作られたことが分かりました。