第23章 伊万里港と平戸藩

第23章 伊万里港と平戸藩

 伊万里港の話をする前に、なぜ研究者の皆さんは、明治20年に有田が作った「有田物語」の影響を受けて、肥前磁器誕生の真実を歪曲したまま本当の真実を追及しないのでしょうか。すでに九州陶磁文化館による有田地区窯発掘調査により、李参平は創り上げられた人物で、肥前地区での磁器誕生を迎えるのは1640年頃であることは事実となりましたが、これは公には公表されていません。時代的に鄭一族が中国徳化窯を支配した時代で、有田地区の磁器窯は、徳化窯の磁器窯であることが判明していますが、黙認されています。
 したがって私は、九州陶磁文化館へ40年前に出向き、「磁器発祥の起源について、有田ばかりに目を向けるのではなく、肥前地区全体をとらえて考えてほしい」と申し入れをしました。また10年ほど前には、学芸員とこのことについて論議をしましたが、「田中さん、不毛な論議はやめましう」と言われてしまいました。さて、本題に入ります。
 (1610年頃)海人平戸氏と海人伊万里氏との倭寇としての繋がりは深く、海上路にて肥前磁器探索行動をしています。肥前に行くには海路が一番安全で、潮の満ち引きに合わせて速く行動出来ました。平戸焼棟梁巨関は、岸岳5窯より移動していた椎野峰を訪ねています。理由については、第7章平戸中野窯に記述しています。平戸藩は、その都度巨関の肥前行きの申し出を快諾し、隅々まで詳しい情報を与えました。
 1630年頃、鄭一族の陶磁器生産に応えるためには、平戸一国では解決できず、肥前地区での量産計画に変更しました。積出港を整備し、平戸港へ陸上げするベストな港として伊万里港を選びました。平戸には経験として優れた海外貿易システム(船場制度)があります。外国船には平戸までと限定し、国内輸送は商人たちが行いました。もちろん、これだけの重大事項でしたから、徳川幕府の内々の御沙汰を受けて始められました。したがって伊万里港には、北前船を代表とする商人たちの船だけが入港しました。(1635〜1640年)
 1641年、幕府は海外貿易の窓口を長崎港一つにした鎖国政策に転換し、平戸藩はこれに恭順しました。隣藩との交渉は難航することが予想されましたが、幕府の御沙汰により問題は解決しました。もっとも鍋島藩は、そのころは磁器生産には興味がなく、森林管理程度の考え方でした。しかし、現場では様々な問題が生じてきました。これらの問題を解決するためには、何人かのフィクサーが必要でした。巨関、前田徳左衛門=東島徳左衛門、有田初代代官山本神右衛門その他数名のフィクサーの存在が考えられますが、今後の研究が必要です。
 1641年以降の長崎港と伊万里港との関係については、今後の研究に委ねたいと思います。
 平戸藩は貿易システムを熟知した人材(今村氏)を長崎へ送りました。唐人町の町づくりも平戸藩が行いました。田川マツも唐船の陣頭指揮(鄭芝龍の代わりに元平戸藩家老籠手田氏を頼り)のため長崎へ行きました。
 1680年代になると、鄭一族は清に敗れ、肥前の磁器物はその販売先を失い、中国磁器が大量に市場へ出回ったため、オランダ商船のみの販売になっていました。幕府としても、鍋島・大村は国内販売に力を入れるように沙汰を出し、平戸藩に対しては国内販売を認めず、藩窯としての機能だけを認めました。
 長崎〜伊万里の航路は、1700年代に入ると、各産地はそれぞれの考え方で長崎へ運びました。国内航路としての伊万里が北前船によって越前、上越。北海道へ日本海ルート。大阪を経由し江戸へ向かう瀬戸内海ルート。熊本、鹿児島、宮崎へは有明海ルート。長崎へは、早岐、川棚、彼杵を経由する大村湾ルート。
 これらについては今後の研究に委ねたいと思います。