第7章 平戸中野窯(不明〜1640年)
中国人巨関たちが、平戸藩の奨励に応じて中野窯に入りましたが、そこにはいろいろな疑問が発生します。平戸藩は、「いつ磁器物を作ろうと考えたのか」「誰が中国人を連れてきたのか」「なぜ中野に窯を作ろうと考えたのか」、それらの計画発案、実行運営、責任者は誰だったのかを解き明かす必要があります。
中野窯に入った巨関たちは、先ず磁器窯作りに取り掛かりました。巨関はどんな磁器窯を目指すのか、目的について平戸藩と話し合いました。
平戸藩としては、「景徳鎮の製品を目指すこと」「明の焼き物として国内販売すること」を希望し、巨関は、同胞の安全と生活の保証、同胞の村作りを希望しました。
まずは景徳鎮と同じく、中国から材料、道具等を取り寄せて研究開発に力を注ぎました。完成した製品は景徳鎮として国内で販売し、問題が発生すると改善研究に取り組み、国内材料だけで、景徳鎮を凌駕する製品作りに邁進しました。
巨関は、1610年頃から肥前地区の陶石探しに行きました。まずは、朝鮮人陶工たちの住む唐津椎野峰を訪ね、前田徳左衛門、中里茂右衛門らと協議し、肥前地区の活動拠点、情報収集の基地と定めました。
巨関は安全な有田川を遡って黒牟田、三川内、波佐見、嬉野、武雄を回ってサンプルを持ち帰り、中野窯で試し焼をして「有田泉陶石、波佐見三俣陶石、天草陶石、針尾網代陶石」の混合粘土に注目し、実用研究開発をしました。
1620年頃には磁器生産の量産化に目処がつき、景徳鎮を凌駕することもでき、平戸中野窯の目的は達成され、次の目標に向かって計画立案を推し進めることになりました。
1600〜1640年、平戸藩が直面する大問題は、徳川幕府とのその存亡をかけた外様大名としての交渉戦争時代でした。このような時代背景があったので、中野窯から三川内山への窯移動は慎重に計画されて行われることとなりました。
