第8章 平戸藩長葉山窯

第8章 平戸藩長葉山窯

 平戸藩は、磁器生産の拡大を狙い(1620年頃)平戸領折尾瀬、三川内山に生産拠点を移す決定をしました。幕府側との軋轢があり、細心の注意を払って三川内山の手前にダミー窯として長葉山窯を作りました。
 この窯の持つ使命は2つありました。それは、幕府に発見されることと、規模拡大のために新しい仲間を集めることでした。幕府側は、波多石崩れの陶工たちが唐津焼を作って生活している窯で、肥前地区にはよくある窯であると認識しました。
 1625年、最初に中里エイ親子を中心とした数名から始まり、1640年には椎野峰からの仲間たちも加わり数百人規模になっていました。
 平戸中野窯から三川内山への移動は、20年間(1630〜1650年)をかけた大移動となりました。まずは肥前地区における本格的磁器窯製作(数年をかけての事業)、分業体制確立と統率の研究開発を実践しながら進める必要がありました。一方で、平戸中野窯でもギリギリまで生産する必要もありました。
 平戸藩では、幕府をも巻き込む大問題が発生しました。鄭一族の鄭芝龍が平戸に入場したのです。1622年に平戸入場した鄭芝龍は、2年後には後期倭寇最後の覇王になり、平戸藩主より「平戸老一官」の称号を授かりました。鄭成功の母、田川マツを娶り、東シナ海、南シナ海の覇者となり、明国の大将軍となりました。
 平戸焼の進む方向性が、この鄭芝龍の出現によって大きく変わることとなりました。芝龍は、景徳鎮からの磁器物の入手が困難となり、貿易の主流であった磁器物の調達問題を解決する必要に迫られました。平戸藩としても、この問題が解決できれば、藩の繁栄が確実視できましたが、幕府や隣藩との交渉は難航することが予測されました。
 肥前地区では、量産計画に変更する必要が生じていました。有田地区、波佐見地区においても、量産計画に取り組もうとしていました。特に有田地区では泉陶石があったので、量産できる場所として有望であると考えられました。平戸藩としては、幕府への恭順と説明に重きを置いていたので、幕府の御沙汰に希望を託しました。