第10章 三川内山、東窯、西窯

第10章 三川内山、東窯、西窯

 1640年東窯の製作に着手され、長葉山窯から移動し待望の磁器窯が整備されることとなりました。西窯も同様に整備され、東窯・西窯は、100m以上の連房窯でした。
 これによって鄭一族の要望に応えることができましたが、1680年代になると、台湾の鄭一族が清国に敗れ、肥前の磁器はその販売先を失うこととなりました。東窯・西窯は、鄭一族のために作られたものであったが故に、鄭一族の滅亡とともにその存立の基盤を失いました。
 鍋島藩、大村藩は国内向け販売に力を入れて危機を乗り越えましたが、平戸藩は国内販売の道は取れず、幕府の沙汰のため藩窯としての道を選ぶことになりました。東窯・西窯は、生産量が不足する状態で運営されることとなり、不況期と繁栄期を繰り返しました。しかし、東窯・西窯は、肥前地区における技術的な先駆者として高い芸術性と美術性を有しており、武士道、平戸鎮信流茶道とともに発展することとなりました。
 1806年大不況のため、民間人として長崎出島前で直接販売を試みましたが、結果は上々でした。しかし長崎奉行から、平戸藩に御沙汰があり、民間では無理であると判断した平戸藩は、平戸三川内焼物産会所を設置しました。