第11章 肥前の分業体制下

第11章 肥前の分業体制下

 分業化を進める理由は、鄭一族の要望を平戸藩が叶えるためでした。巨関たちは平戸中野窯の研究で、量産などの目処はついていましたが、鄭一族の要望に応えるには程遠い計画でしたので、計画を再考して、肥前地区に広げる必要が出てきました。また、当時は半農半業の時代ですから働き方改革も必要でした。
 隣藩との協議も必要で、鄭芝龍、平戸藩、幕府との協議の成功も、必須条件となりましたが、奇跡的に幕府側が内々に協力する形で隣藩問題も解決できました。当時は、大坂夏の陣も終わり、天草四郎を代表とするキリシタンとの戦いもあり、幕府は浪人問題に苦慮していた時代背景がありました。
 肥前地区(三川内山、有田南川原、波佐見三俣)は、一山100人くらいの規模で、三皿山は相互に協力を惜しまず、何か問題が生じたときには三川内山で問題解決を図りました。中国における分業は最大で47区分にも分けられたそうですが、肥前地区では分業は7区分から始まりました。
 1630年(平戸藩、鄭芝龍、徳川幕府)になると、幕府側も了承し、隣藩へは幕府から御沙汰が内々に出ることになりました。どういう理由かは分かりませんが、幕府は朝鮮人による磁器誕生を内々に沙汰しました。
 分業製作、磁器窯製作、量産製作、製品製作などを考えると、中国人でなければ肥前磁器誕生は成し得なかったと思います。朝鮮人陶工たちは労働力としては必要不可欠な存在であったとは思います。
 1633年、平戸藩、三之丞を中心とした、肥前地区における制作集団が出来ました。巨関は、量産の要である有田地区に入り陣頭指揮をしました。
 どれほどの中国人が肥前地区に入ってきたのかは解りませんが、現在中国側との共同研究に入っています。分業のリーダーとしての中国人職人の数は、中野窯を含めて、当初は60〜100名ほどは必要であったと私は考えます。さらに最盛期の1630〜1660年の30年の間には、には数百人規模で肥前地区に入って来ていて、その後は中国へ帰った者と帰化して残った者に分かれました。