第12章 王直について

第12章 王直について

 中国、明の海寇の首領、密貿易業者。安徽省の出身。号は五峰。任侠で知略があり、仲間の徐惟学・葉宗満らと海船を造り海禁を犯して海上貿易に進出し、南海諸国と交易して巨富を築きました。ついで、1545年日本の五島を根拠として日中密貿易の仲買として重きをなし、浄海王と自称しました。1547年浙江巡撫朱執の海禁強化と取り締まりが厳しくなり、逃れて五島・平戸に拠って徽王と号して倭寇を指揮し、中国の沿海地を荒らし回りました。これに苦しんだ明朝は、征倭総督胡宗憲の謀略で、1557年王直を誘い出すことに成功し、王直は捕えられ処刑されました。以上が日本における王直の一般的な評価です。
 王直については中国側も認識しています。どのように認識しているかというと、中国側から見ると、悪事を働いた海賊の親玉だと認識することが主流です。しかし中国の学者のなかには違う意見を言う人もいます。それは王直が海の情報網を網羅して、非常に世界的に貢献した人物であり、西洋の大航海時代の遙か前に王直が東シナ海・南シナ海を統一しており、これは王直のすごい功績であると評価する学者もいますが、圧倒的大多数は王直は悪い罪人であるという評価で一蹴されます。
 しかし私は、平戸にとって王直がいなければ平戸藩は存在すらしなかったかも知れないほど重要な人物であると考えます。平戸藩の磁器生産においては、王直と巨関の関係が重要になります。この点は、平戸藩がいつ自分の藩で磁器を制作しようと思ったかが重要なポイントで、その磁器生産の情報を誰から得たのかということも大事なポイントです。
 そこで登場するのが王直であり、王直の手引きによって巨関と平戸藩が対面する場面があったのかも知れません。それも通説の1598年ではなく、もっと前の段階で会っていると私は考えています。王直は1560年1月に明に捕えられて処刑されています。ですから平戸藩と巨関を繋いだのは王直の後を継いだ李旦かも知れません。しかし李旦は密貿易の相手方として交渉の場に出るタイプではありません。
 ただ、王直と将来についての方向性を話し合った可能性はあります。平戸藩主松浦鎮信の父、松浦隆信は戦国乱世に領土を広げ、平戸藩の礎を築いた人物でしたが、1542年に王直を平戸に招き入れて王直の館まで建造しています。それは鉄砲などの武器を手に入れるためであったようですが、その時期に焼き物に関しても話はされていた可能性はあります。
 隆信も最初は大変でした。大内氏に助けを求めたりする場面もありました。そのような時期に奇跡的に王直が現れます。王直が現れてからの隆信は、勝ち続けて領土を広げていきます。なぜ強くなれたのか、それは資金力でした。それに鉄砲が手に入ったことも大きかったです。
 そのうち平戸でも鉄砲を作り始めるようになりました。その鉄砲鍛冶と言われる人は中国人だった可能性があります。中国から堺に来た人物に田川七左衛門がいます。日本側は今も認めていませんが、田川七左衛門は鉄の職人で、堺に行ったということを中国側の資料では証明されています。私は朝鮮出兵の大将であった小西行長も中国人であったのではないかと思っています。
 とにかく、王直が現れてからの平戸は負けなしという事実は、誰がどの資料を調べても疑う余地がありません。王直は、平戸藩を作った1人であると思います。
 ところが学者の平戸藩に対する評価というものは大内の言いなりの平戸藩であって、西の都とは言うけれど、実際は大内に操られていただけだったと今日の日本の学者は評価しています。
 しかし私はそれは全く違うと思います。大内氏を利用していただけで戦国時代はこのようなことは当たり前にあることで、力をつけて独立して平戸藩として成り立っていたのであり、そこには王直の存在が大きかったのだと思います。王直の存在は大内氏も怖かったのであって、王直がいなかったら平戸藩は潰されていたと思います。
 王直自身は東シナ海・南シナ海で海の王として君臨したかったのだと思います。当時はポルトガルとスペインの脅威がありました。しかし王直にはそれら西洋列強に勝つだけの力を身につけていました。
 私が中国側に見直して欲しいことは、ポルトガルとスペインのような艦隊に立ち向かったのは王直だけであり、ただの海賊と評価するのではなく、王直に対して歴史的に適切な評価をして欲しいと思っています。東シナ海・南シナ海での力関係は、ヨーロッパよりも王直のほうが上であったし、王直の手引きがなければ彼らはこの地域の航路を利用することもできませんでした。
 イエズス会であっても王直は無視できる存在ではありませんでした。王直もイエズス会は大事にしていましたから、王直自身もキリシタンに入っていました。そのあたりのバランス感覚が優れていて、王直は戦わずして利益を上げるような交渉をヨーロッパ側としていたということです。
 ヨーロッパ側の戦略は、城を築いて自分の領土として支配するという植民地化の手法でしたが、東シナ海・南シナ海においてはその手法がとれませんでした。
 当時は明の終焉が近い時代でしたが、まだ力はあった時代でしたから、明国としては海禁令に反して沿岸地を荒らしまわった王直のことを罪人として成敗する歴史を作ったのでしょう。しかし王直の功績というものは、中国人も本当は理解しているのだと思います。王直は捕えられ調べられて処刑されましたから、資料は多く残っているはずなので、そのなかで、平戸との関わりとか日本側では全く分かっていないことなどが解明されるようになれば、素晴らしいことだと思います。