第15章 鄭成功について
後期倭寇の頭目である鄭芝龍と武士の娘まつとの間に生まれた福松(鄭成功)は、平戸で生まれ育ち、7歳の頃、父の招きで中国に赴き、学びに励みました。21歳のとき、明の隆武帝により明王朝の国姓「朱」を賜ったことから、名を「成功」と改めた。以後、人々は彼を「国姓爺」と呼ぶようになりました。鄭成功の最も重要な功績は、一つには清朝を滅ぼし、民を復活させようと努めたこと、もう一つは台湾からオランダ人を排除しようとしたことでした。
父の芝龍が清朝に降伏したとき、その降伏を潔しとせず母まつが憤死したこと、さらに支援を求めた徳川幕府がそれに応じないなどの苦労もあり、清軍攻撃による大敗もあったが、結果的にはオランダ人の守る安平のゼーランディア城を陥落させ、オランダ人を台湾から追放しました。平戸が生んだ国際的風雲児ともいうべき英雄でした。しかし、鄭成功はオランダ人を台湾から追放した翌年に、病に倒れ39歳で急死しました。
このように戦いに明け暮れていた鄭成功は、資金が必要であるため、父の代から続く平戸藩との関係を強化して、貿易品としての肥前における磁器物の大量生産を促進しました。また平戸藩側にとっても、鄭一族は古くからの重要な貿易相手であり、鄭成功の代になり、ますます肥前陶磁器の大量生産という互いの利益になる事業を推し進めました。そのときに鄭成功と平戸藩とのパイプ役になった弟の田川次郎左衛門の存在が大いに役立ちました。
鄭芝龍の時代から徐々に中国産の貿易品としての磁器が流通しにくくなっていました。当時日本から輸出していたものは鉱物が主流であり、中国からの磁器の流出が減り、主力の貿易品の一つがなくなったことで貿易商としての鄭一族には死活問題でした。
鄭成功の時代になると、さらに中国からの磁器の流出は無くなり、新たな磁器の生産地が必要になりました。鄭芝龍は、平戸藩と交渉しながら、中国では磁器職人たちを集めていました。鄭成功の時代になって本格的に肥前の磁器生産が始まり、三川内・有田・波佐見の地で大量生産が行われるようになりました。それを実行したのは平戸藩で、後期倭寇最後の長である鄭一族との密接な関係があったからです。
かつては日本も戦国時代の乱世でしたが江戸時代になると、規律と共に武士道を重んじるようになりました。鄭成功が生まれたのはそのような時代でした。多くを語らず自己主張もしない凛とした姿の母(田川まつ)の日本的なアイデンティティーを鄭成功は受け継いでいました。
父の鄭芝龍が真に降伏したときも、それを潔しとしなかった母の意思に同調して、芝龍の軍と戦っています。これは日本の主君に忠実な武士道の精神であり、一度忠誠を誓った明朝に対して裏切ることなどできなかったのでした。
南京攻めのときも敗れはしましたが、略奪はせず弱者には手を出しませんでした。その進軍の姿は今でも語り継がれています。
台湾を攻めるときも現地人を大切に扱い、結果的にはオランダの植民地支配から民衆を解放しました。今でも国の英雄として祀られています。
後期倭寇の頭目「王直」が東シナ海を牛耳っていた時代から続いていた平戸との関係は、「李旦」から「鄭芝龍」そして「鄭成功」へと受け継がれ、陶磁器の貿易という関係のなかで、大海原を舞台に諸国と交流する鄭一族の精神と日本的な精神を併せ持つ「鄭成功」は武士道や侘び寂びなどの日本的な考えを哲学として心に持って行動していたのではないかと私は思います。
