第16章 田川まつについて
田川家は元々戦国大名である小西行長の家臣でした。秀吉の朝鮮出兵で小西行長の隊として出陣していた「田川七左衛門」は同じく小西行長隊として出陣していた平戸の「鎮信」とは戦友でした。その後に起こる関ヶ原の合戦で、敗戦した西軍側の小西行長の家臣であった田川七左衛門は窮地に立たされたが、鎮信によって平戸にかくまわれて、武士としての肩書きを隠し医者として平戸で暮らすことになりました。鄭成功の母である田川まつは、その田川七左衛門の娘として平戸で生まれ育ち、貿易を目的に上陸した鄭芝龍と出会い、1624年に福松(鄭成功)を生みました。
1640年頃になると田川まつは華僑の担当頭として長崎で陣頭指揮を取りました。やがて鄭芝龍の招きにより「まつ」は中国泉州に渡りました。この時代は徳川幕府が鎖国令を出し、外国にいる日本人の帰国を禁止した時期であり、2度と日本には戻れぬ覚悟の渡航でした。
その後、清の攻撃による泉州城陥落に際し、鄭芝龍は降伏しましたが、場内にいた「まつ」は降伏することなく応戦して泉州城内で自害し、日本女性の心意気を示しました。
鄭成功には弟がいましたが、田川姓を残すために平戸にとどまり、田川次郎左衛門(平戸藩士)として田川姓を受け継いでいきました。鄭成功との血縁関係もあるので、平戸藩では力を持っていました。
